敏感の彼方に

HSPエンジニアがお送りする、前のめりブローグ

人工的な「感動」の押売りに屈して人工知能(AI)の奴隷になるエモい日

 

 

社会が「安定期」に入ってしばらくすると、ありきたりのことは簡単に飽きられてしまい、需要も見込めなくなってしまうため、人工的な「感動」(AE:Artificial Emotion)を作って押し売り気味にプッシュするやり方が横行し始める。

 

一方、過去3度目のブームを迎え、もはや社会のインフラとなりつつある人工知能(AI:Artificial Intelligence)にとっては、「感動」を含む予定調和的な共感力、創造力、企画力、発想力なんかも次のステージのターゲットとなっており、正規分布の中に納まる程度の人工的な「感動」ならば、AI でも容易に作れそうである。

 

そんな人工的な「感動」について、少し考えてみる。

 

甲子園という「神話」がもたらす感動

夏の甲子園は、すでに第 100 回を超えている。戦争を挟んで 100年以上にもわたって数々の名ドラマを生み出してきた大会だから、単純にすごい。

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しかし、ここ 20~30年は、「野球留学」が常態化してきたこともあり、「感動」以外の感情が湧き起こるようになったことも事実である。

 

「野球留学」とは、より良い練習環境を求めたり、信頼するコーチに誘われたりして、県外の高校に進学することである。特に、大阪、神奈川、愛知といった「甲子園に遠い(出場校が多い)」都道府県から、鳥取、高知、福井といった「甲子園に近い(出場校が少ない)」都道府県へと越境進学することで、少しでも甲子園に近づきたいという思いが強くなることは、人間として当然のことである。

 

このように他県から有能な人材を集めるのは、資金力もある私立高校だからこそできる技なのだが、今年の状況を見てみると、甲子園出場 56 校中、私立が 48 校と公立を圧倒している。

 

その 48 校の出場選手の出身中学は、週刊誌やネット上に掲載されているため、それらを集計すれば、出身中学の「県外率」を容易にはじき出すことができる。

 

ここ数年は、その「県外率」が 100%となるケースも出てきて、「A県代表校にA県出身者がいない」という状況が半ば当たり前のことになってきている。

 

このような流れ自体は、国籍を変えたり帰化したりして、出身国以外の国からオリンピックやW杯に出場しようとすることに酷似しているため、今さら驚くことでもないけど、甲子園に出るのは完全にアマチュアの「高校生」であり、彼らが「感動」や「清廉さ」の名の下、商業主義に乗せられて、「47 都道府県」という人々の「故郷心」を妙に煽惑する区分けの中で、熱中症のリスクを伴いながら戦うことに、果たしてどれほどの意味があるのだろう、と今さらながらに考えてしまう。

 

神話好きな日本人だからか、甲子園という「神話」が聖域化すればするほど、それがもたらす人工的な「感動」ですら、もはや誰も否定できなくなってしまう。そのような状況の中、「野球留学」もタブー視されてしまうのは、当然の帰結である。

 

そんな甲子園に関しては、「投球数」というタブーもある。今年も、1人で 900 球近くを投げ抜いた投手がいたが、テレビや新聞などでは、その投手の酷使ぶりがあまり報じられなかった。神話に対する忖度が起こっている。

 

 

学校行事は「感動」のオンパレード

学校教育の現場でも、人工的で予定調和的な「感動」が目立つ時代となってきた。

 

その最たるものが、「2分の1成人式」と「組体操」だろう。いずれも、当初の主旨としては、人生の来し方を振り返ったり、学校生活で身に付けた体力や規律を披露したり、ということで、特に問題ないと思うのだが、やはりマンネリズムには抗えず、「感動」に依拠せざるを得なくなったのが今の姿だろう。

 

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親への感謝の手紙を聞かされたり、巨大なピラミッドを見せつけられたりする立場としては、その人工的な「感動」がアホらしくて仕方ない。こんなステレオタイプなもの、誰が求めているんだろうと正直思ってしまう。

 

幸い、子どもが通う学校では、ピラミッドがさらに巨大化することはなかったが、「巨大ピラミッド」の危険性に対する世間の風圧に押されて、なぜか組体操自体がなくなってしまった。加えて、5年生の騎馬戦まで、「危険あり」との判断でなくなってしまった・・・「リスク大の感動」と「リスクゼロ」という両極端な振れ幅の大きさに、開いた口が塞がらなくなる。

 

「2分の1成人式」も、そのうちひっそりと無くなるんじゃないだろうか。ただし、人工的な「感動」を反省してではなく、「陳腐化」を理由として。

 

その他、総合学習や道徳の時間などに、戦争や災害の話を感動ベースで押し付けてくるパターンもある。誰も批判しようがなかったり、誰もが感動するだろうと思われる領域を聖域化して、そこに感動を押し込むやり方は、賛同しない人間にとっての「逃げ道」がなく、ある意味すごく危険な香りがする。

 

 こ 

 

「自己犠牲」という感動

日本人は特に、「自己犠牲」が好きかもしれない。

 

自らを犠牲にして他人を助けることは、何ら忌避することではなく、人間(あるいは動物)としての最高の美徳にも感じられる。

 

ただし、その「神話」の聖域化が進むと、話は違ってくる。過去、「自己犠牲」という名の「サービス残業」に、どれだけ多くの人間が苦しめられてきたかを考えると、美徳と苦痛が表裏一体であることが容易に分かる。

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同じことが母親の「自己犠牲」にも言える。

 

過去、子ども向けの読み物や学校の授業などを通じて、自己犠牲を厭わず家事や育児に専念する女性こそが道徳的な母親像と認められ、神聖なものとして時に感動を伴いつつ特別視されてきた歴史がある。

 

もちろん、自己犠牲というのは、何も感動のためだけではなく、「ここまではやってあげたい」という純粋な親心や、ある種の「自己満足」的な要素も多分に含まれており、その点では自発的なものなんだけど、その歴史が何層にも積み重なると、イヤでも抜けられない強制的なものに変容してしまう。

 

そして、「男女平等」という大義名分の下、「自己犠牲」の化けの皮が剝がれそうになると、今度は自然出産や母乳育児、手の込んだ家庭料理、睡眠を削ってまでの献身といった「感動」とセットにすることで、聖域の崩壊を防ごうとする流れが出てくる。

 

このように人工的な「自己犠牲」という感動によって、特に生活面で女性(母親)に頼り過ぎる傾向が続いてきたことが、現在の男女間の問題(ひいては、少子化の問題)や親子間の問題(ひいては、老後・介護の問題)の一因になっているような気もする。

 

また、物事には必ず「反動」というものがあるから、今後予想される「母親の自己犠牲」に対する反動に、日本人男性は相当な覚悟をしておいた方が良いと思う。オムツを一度交換してあげただけで「イクメン」と自称できるほど甘い世界など待っていない。

 

 こ 

 

人工知能(AI)の奴隷になるエモい日

イノベーションは、主に「便利」や「娯楽」の追求によって起こるけど、時代の流れとともに必需品が飽和した今、イノベーションの軸足は、「便利」から「娯楽」へと移ってきている。

 

「娯楽」が中心になった場合、その需要を喚起するには、「いかに人の心を動かせるか」が勝負になってくる。つまり、「感動」だ。どれだけ「エモい」娯楽を提供できるか、だ。

 

この点、甲子園のドラマなんかは、比類なきほどの「エモい」娯楽となるわけだが、その感動はあまりにも予定調和的すぎて、AI の論理性や合理性の中に十分納まってしまう。

 

このように定型的な人工「感動」は、少しでも多くの人の心に届くように、大衆の平均に照準を合わせるため、AI の枠組みを凌駕するほどの人間の突拍子もない「情緒」などは全く見られない。このため、AI にとっては非常に扱いやすく、AI ビジネスの恰好の餌食・標的となってしまう。

 

つまり、人工的で正規分布に納まる程度の「エモい」日常などは、AI が容易に作り出せる世界であるため、AI をベースとする商業主義に乗せられて、容易に AI の奴隷と化してしまうんじゃないかと危惧している。

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「感動」は人を思考停止させる

この夏、京都の街を散策して、寺社のライトアップやプロジェクションマッピングなどの新たな試みにいくつか遭遇した。1つひとつのアートに足が止まり、それぞれの造形美や丁寧な仕事ぶりに感心して、思考も停止した。

 

ただ、エンジニアとして仕組みや機材に着目すると、「寺社」という人工物に「光」という人工物を上塗りしただけ、という感覚が拭えなくなり、人間は「art on art on art on ・・・」という感動の上書きをどこまで続ければ満足できるのだろう、とヘンに考え込んでしまった。

 

「感動」には、人を思考停止させる力がある。感動に絡めとられた人は、概ねそれに満足してしまうからだ。

 

一方、AI 自体や AI に関連するイノベーションを起こそうとする人たちは、「デザインシンキング」に基づくトライ・アンド・エラー(trial & error)を延々と繰り返しており、思考停止することがない。それに応じて、AI も急速に進歩してゆく。

 

だから、AI が容易に作り出せる程度の感動で思考停止しているようでは、AI によって簡単に料理されてしまう。AI から見て、攻略が非常に簡単な人間になってしまう。

 

人工知能(AI)は、ボクらの「感動」を虎視眈々と狙っていることだろう。

 

 

 

さいごに

だから、人工物にはない「自然」に接していたいといつも思っている。スマホの向こう側には、人工物しかない。画面の向こう側には、人工的な感動しかない。

 

日本に限らず、人工物によってありとあらゆるものが埋め尽くされようとしているこの世界だけど、誰も踏み入らない野山や人があまり来ない川辺に降り立てば、名を知らぬ草木の中に、名も知らぬ昆虫の中に、人工知能が思いもよらない「感動」が待ち構えている。

 

そして、クマの恐怖も待ち構えている・・・

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 こ 

 

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