子どもは自由です。経済的な事情や身体的な事情など、個々の事情はあるでしょうが、少なくとも心は自由ですし、自由であって欲しいと思います。
一方、大人は不自由です。子どもと違って、自分の意思で好きなように生きられる点では、一見すると「自由」なのですが、目的や意味がないと何も動けない、という点で実に「不自由」な生き物です。
というようなことを以前書きました。
子どもは、大人から見て「何の意味があるの?」と首をかしげたくなることに没頭して、それに夢中になります。でも、成長するに従って、不自由な大人の世界が垣間見えてくると、「自由」の期限を何となく意識し始め、そこで初めて「自分探し」を始めます。
子どもの「自分探し」
「自分探し」というのは、大人の不自由な世界に入ろうとしている「自分」、すなわち、社会の歯車になろうとしている「自分」の最後の抵抗、という側面があります。
子どもはよく、親に向かって「ねぇ、見て!」と言います。そうやって、自分自身の不確かな存在を大人に確認してもらっているのです。
でも、思春期にもなれば、逆に「見ないで」というような態度になり、誰かに確認してもらわなくても、自分自身の存在を自ら確立できるようになります。
こうなると、自作自演の映画で主演を張っているような感覚であり、世界は自分を中心に回っている、という大いなる勘違いの中にいることになります。つまり、自分が「太陽歯車」で、自分の周りのありとあらゆるものを「遊星歯車」のように感じています。

ところが、大人の世界が近づいてきて、よくよく自分のことを客観的に捉えてみると、自分にはとても「太陽歯車」の素質などなく、「遊星歯車」として「社会」という機械を動かす要員の一人でしかないことに気付きます。
そして、それに抗うかのように、「自分探し」をおもむろに始めるのです。
大人の「自分探し」
それで「自分」が見つかるか否かに関わらず、時間だけが容赦なく過ぎていき、好むと好まざるとに関わらず、やがて社会の歯車になるわけです。
歯車になってからも、それが果たして自分のあるべき姿なのかどうか迷い続けますが、やがて結婚や出産といったイベントがあり、特に子どもを持とうものなら、それは次の「歯車候補」なわけですから、自分自身が歯車かどうかなんて、もはや悩んでいる余地などなく、そうやって知らず知らずのうちに社会に絡めとられていく・・・というのが、ひと昔前までの日本の姿でした。
社会の歯車となって、そこそこの人生を粛々と生きることに「意味」を見出すのです。
ところが、どちらがニワトリでどちらがタマゴかは分かりませんが、未婚率の上昇や ネット・SNS の登場によって、「自分探し」が終わらなくなってしまいました。

自分のタイミングで自分の好きなことを投稿し、それに対する反応がある状況が続く限り、自分は「太陽歯車」でいられるのです。
もっと言えば、子どものころ親に向かって「ねぇ、見て!」と言っていた状況と同じですから、自分探しよりもさらに時が遡っているとも考えられます。
ブロガーやインスタグラマなど、有名なインフルエンサーの方々のコメントを拝見していると、「天職」や「好きを仕事に」といったフレーズが見られますが、その裏には、「自分探し」の途上の苦悩のようなものが見え隠れしていることが往々にしてあります。
「自分探し」に「生きる意味」を見つけるのは難しい
夏目漱石の『それから』に出てくる高等遊民のように、社会の歯車とならずに「自分探し」をし続ける人生は、何も近代に限った話ではなく、おそらく人類の歴史に匹敵するほどの長きにわたって設定されてきた問題でしょう。
でも、その明確な答えを聞いたことはありません。
「自分探し」というのは、自分自身を太陽歯車として維持しようとする行為ですから、自分自身が太陽歯車たり得ることが前提となります。でも、太陽がやがて沈みゆくのと同様に、太陽歯車もやがて遊星歯車となって、新たな太陽歯車の駆動力を伝達する役回りへと落ち着くのが自然です。自然の摂理のようなものかもしれません。
ですので、「自分探し」が自己目的化してしまうと、太陽歯車が遊星歯車を伴わずに、ただ自分だけで空回りし続ける状態に近づきます。この状態で「生きる意味」を見出すのは、かなり難しいでしょう。
「自分探し」の果ての「老害」
最近、「老害」という言葉をよく耳にします。
それが本当に「害」と呼べるものなのかどうかは分かりませんが、もし「害」であるなら、それは、太陽歯車が空回りしていて、社会の歯車と噛み合っていないことが原因ではないかと想像します。
つまり、「老害」をもたらすのは、まだ「自分探し」が終わっていない老人である可能性が高いのではないかと考えます。単なる仮説に過ぎませんけどね。
もしそれが正しいなら、あと 30 年もすれば、社会は「老害」だらけになるんじゃないか、ということが心配になってきます。要らぬ心配でしょうか。
ちなみに、最近の日大アメフト部や日本ボクシング連盟のニュースなどを見ていても、次々に出てくるご老人の皆様は、まだ自分探しの途上なんだろうなぁ、と思えて仕方がありません。
大人の「他人探し」
「自分探し」というのは、やはり子どもの特権だと思います。
そうすると、大人には、「何も探さない」「ほかを探す」の2択しかありません。
そして、「何も探さない」というのも寂しいので「ほかを探す」となれば、その際には、「他人探し」が最も有効ではないかと思っています。

「他人探し」というのは、勝手に作った言葉ですが、「他人の中に他人を見つける」というような意味です。
自分探しには限界がありますし、そもそも自分探しをしていても、答えらしきものが見つかる可能性はかなり低いと考えられますので、それならばいっそのこと、自分は遊星歯車になり、友人・知人でも同僚でも後輩でも家族でも、どんな相手でも構わないので、その相手の周りを回って、相手を輝かせてあげると、それが自分自身の喜びになります。
結局は、「遊星歯車」として社会の歯車になるだけの話なんですが、それを自らの意思で選択するようにすれば、消極的に「遊星歯車」になるのとは、また違った景色が見えるはずです。
仕事でお客さんや取引先に喜んでもらった経験がある人なら分かると思いますが、自分を必死になって探すことなんかよりも、誰か他人を探して尽力し、それに対して一言もらえることの方が、はるかに意義深く感じられます。齢を重ねるほど、深く深く感じられます。
そういうことが分かっている人は、嬉々として遊星歯車になる道を選ぶんでしょうね。
「岡本太郎」的「他人探し」
上に書いたことは、遊星歯車となって他者と積極的に関与する(つまり「ほかを探す」)という姿ですが、もう1つ上に書いた通り、「何も探さない」という立ち位置も当然あり得ます。
これを勝手に、「岡本太郎 的 他人探し」と呼んでいます。
これは、一見すると「自分探し」なんですが、上に書いたような「不自由(大人)への抗いとしての自分探し」ではなく、不自由を経験した後に再び自由を獲得しようとする意味での「探し物」であって、他者からの「評価待ち」の自分探しではありません。
他人の評価など一切求めず、ひたすら孤独に自分と向き合い続け、その結果が他人への好影響として結実する点から、「他人探し」と勝手に呼んでいます。
遊星歯車が何とも噛み合わずに回っているようで、実は内部に磁石が組み込まれており、その磁力が他者に影響を及ぼすイメージです。
ボクとしては、このような生き方に大きな魅力を感じます。
さいごに
なかなか「自分探し」が終わらない世の中ですが、どっぷりと浸かって抜け出せなくなる前に探し物を終えるか、「他人探し」へと移行するか、そのいずれかの中に「生きる意味」を見出していきたいところです。