国際芸術祭『あいちトリエンナーレ 2019』の企画展「表現の不自由展・その後」が中止に追い込まれ、「表現の自由」を巡る波紋が広がっている。
問題の中心となっている作品は、慰安婦を表現した少女像や昭和天皇を含む肖像群が燃える映像作品で、いずれも過去に展示不許可となった作品であり、これらをもって「表現の自由」を考えるきっかけを与える、という趣旨の企画展である。
ただし、あくまでも「きっかけ」を与えるだけであり、主催者の立場としては、個々の作品に対する賛否を一切示していない。
「表現の自由」とは?
そんな「表現の自由(または、言論の自由)」の根拠となるのが、憲法21条。
第二十一条
- 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
- 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。
専門家によれば、「表現の自由」の核心は、「見たくも聞きたくもないものですら、とりあえず尊重すること」らしい。一方、「事前の審査」が「検閲」の要件の1つなので、今回のような事後の行政対応は、「検閲」とまでは言えないかも、とのこと。ただし、事後であれ行政が介入するのは、憲法違反の可能性あり、ということ。
関係者や世間の反応
今回の企画展に対する関係者や世間の反応は、だいたい以下の通り。
「とにかくダメ」派
日本人を陥れる企画だからダメ、という内容自体に対するダメ出し。意見としては問題ないが、これが脅しや暴力をチラつかせたダメ出しなら、憲法違反の可能性大。
「公金だからダメ」派
税金を投入してやるべき展示ではない、というダメ出し。名古屋市長、日本維新の会(大阪府知事、大阪市長)、官房長官や文部科学大臣の立場。このような介入自体が憲法違反?
「公金だからこそ」派
税金を投入するからこそ守るべき表現の自由、という立場。愛知県知事(=実行委員長)。
どうしても「不自由」になってしまう理由
「とにかくダメ」 派は置いておくとして、判断が難しいのは、「公金だからダメ」派と「公金だからこそ」派の対立。でも、いまの政権や政治・社会のあり方に疑問を持っている人でも税金は納めている上、表現活動は多数決で決められるものでもないから、税金が使われるかどうかで争うのもビミョーにずれている。
とは言え、「公金だからダメ」派の意見が強くなれば当然、権力側が認めた作品しか出てこなくなるし、「公金だからこそ」派の意見が強くなっても、指揮を執る芸術監督(今回は津田大介氏)の選任権を有する権力側の意向が色濃く反映されてしまう(権力者が好む表現に偏ってしまう)。
結局、どちらの立場であっても、公共事業としての表現活動が本来の「自由」になることなど、あり得ないんじゃないかと思えてくる。公共主催でも完全な「自由」を担保するには、芸術監督を無作為に抽出し、芸術監督が作品を無作為に抽出するしかない。自治体は、それらの作品を展示する場所を公金で確保するだけで、それ以外の一切に関与してはならない(脅迫などがあった場合ですら)。
白黒がはっきりと分かれない作品表現なら、(実際にやるかどうかは別にして)このようなやり方もできるような気がするものの、元から賛否入り乱れる対象を公共主催で完全「自由」に展示するのは、やっぱり無理があるんじゃないかな。
単なる「炎上」になってしまったのが残念
過去に展示不許可となった作品を公共主催で展示するとなると、今の社会状況を考えるなら、今回の展示中止に至る経緯は、その業界の方なら十分に予想できたことだろう。
「表現の自由」を考えるきっかけを与える趣旨なのに、かなり炎上気味となってしまい、「考える」というよりは「熱くなる」きっかけにしかならず、鎮火するころには一切合切が忘れ去られて、何となく「表現は怖くてめんどくさい」という感覚だけがボクらの心に残ってしまいそうだ。残念でならない。
展示不許可となった作品でも、こうすれば再び展示可能となって日の目を見られる、というような進歩的な結末に至る仕掛けなり仕組みがあれば面白かったのだが、展示不許可作品がさらに展示不許可となっただけで、何の進歩性もない。
あいちトリエンナーレ 2022 を待つ
今回の騒動を忘れることなく、次回(2022年)のあいちトリエンナーレがどのような催しになるのか、楽しみに待ちたい。