敏感の彼方に

HSPエンジニアがお送りする、前のめりブローグ

[自動翻訳]202X 年に英語は「ソロバン」と同じ道をたどっているだろう

 

 

実家の近くにそろばん塾があった。

 

小学生のころ、自ら親に相談して、通わせてもらうことになった。元々、数字や計算はかなり好きだったので、親にしてみれば、「いまさらソロバン?」と思ったかもしれないし、「さらに磨きを掛けたいのか」と思ったかもしれないし、実際にどう思ったかは知らないが、スグに OK をもらえた。

 

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ところが、そんな親の想いとは裏腹に、ボクがそろばん塾に通いたかった理由は、別の2つ。「漫画」と「ミス」であった。

 

漫画

その塾には、待合室に漫画が山ほど用意されている、と友達に聞いた。週刊誌や月刊誌はもちろんのこと、単行本も種類が豊富、とのこと。

 

当時、お小遣いで買ったり友達に借りたりして漫画を読んでいたが、それではとても満足に漫画を読めないため、「塾に漫画がいっぱい」という情報は、一瞬にしてボクを入塾へと駆り立てることになった。

 

そして、入塾してからは、授業が始まる1時間も2時間も前に教室に到着して、漫画を読み続ける日々。共働き家庭のため、両親は知る由もなし。人生を振り返ってみても、あれほど漫画に読み耽っていた時期は、ほかにないような気がする。

 

ただ、そろばんもちゃんとやらなければ、成績次第で辞めさせられるだろうと恐れていたので、かなり真面目に取り組み、結局1年ほどで2級か3級ぐらいになっていたんじゃないかな。覚えてないけど。

 

そのうち、ボクが漫画目的で通っていることに気付いた兄から、『リングにかけろ』という伝説のボクシング漫画を借りてこい、という命令が下った。逆らおうものなら「ブーメランフック」が飛んできそうな勢いだったため、塾長に頼んで毎回1巻ずつ借りていた記憶もある。

 

ミス

その塾は、夫婦で経営されていたのだが、その奥様が何と「ミス〇〇県」に選ばれたほどの美貌と若さと良い香りで、小学生ながらに惹きつけられるものがあった。「恋」だったのかもしれない。

 

一方、塾長たる旦那さんが「なんでアナタがミスの夫?」と思えるほどイケテナイメンだったこともあり、恋に落ちたボクは、秘かに旦那塾長を敵視していた。

 

授業中は、この2人の先生が教室中を見回っていたため、ミス先生が近くを歩いている時に質問のフリをしてよく手をあげたもんだ。タイミングをミスって旦那塾長がやってこようものなら、「あ、もう分かりました」の一言。先生、ホントにすみません。

 

* * *

 

そんなふざけたソロバンライフを送っていたボクだが、入塾から1年少しで辞めてしまった。その理由もすごく単純で、「単行本を全部読んだ」から。親にも一言「もう辞めるわ」だけ。よくこんなのを許してくれたものだと、子どもを持ってから改めて、親を尊敬するようになった。そのぐらいの「テキトー」な子どもとの接し方が、ボクにとっては理想である。

 

このような思い出のあるそろばん塾も、ボクが高校生になったころには、ひっそりとたたまれ、2人の先生も別の土地に移り住んだようだった。あのミス先生は今、どこで何をしているのだろう。あ、旦那塾長もね。

 

そろばん vs. 電卓

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電卓がこの世に現れて普及し始めた 1960 ~ 1970 年代当時、そろばんの未来がどのように語られ、危惧されていたかは知らないが、それから 50 年経った今でも、そろばんが無くなっていないことは事実である。

 

そろばんの達人にもなれば、足し算や引き算は、電卓を操作するよりも暗算の方が速いらしいが、ボクのような凡人では、電卓に太刀打ちしようがない。

 

では何故、そろばんが生き残っているかと言えば、お世話になった親世代の懐古主義的な側面もあるのだろうが、それよりも「役割の変化」がかなり大きいみたいだ。つまり、従来の「計算の道具」という役割ではなく、集中力・記憶力・忍耐力を育てたり、右脳を伸ばしたりする「能力開発ツール」という役割が注目されている。

 

人間は、「能力開発」とか「知育」という言葉に結構弱いらしい。

 

川で洗濯 vs. 洗濯機

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似たようなテクノロジの出現の例として、洗濯機はどうか。

 

桃太郎のばあさんは、もし洗濯機を手に入れた場合、それでも川で洗濯をし続けるだろうか。桃太郎の嫁に、川での選択を強いるだろうか。桃太郎に子どもが生まれたら、川での選択を教え込むだろうか。

 

たぶん、どれもしないだろうね。川で洗濯することに、「能力開発」や「知育」といった人間の欲求は反映されない。もし、そのような反映がなされるなら、今でも日本のどこかで、川で洗濯する姿が見られるんだろうけど、ボクは見たことがない。

 

自動翻訳の進歩

人工知能(AI)による自動翻訳の実力は、今や TOEIC 900 点を超えるレベルにある。

www.itmedia.co.jp

 

契約や特許の文書など、言葉そのものに 100%の精度が求められる用途は別として、日常会話、旅行会話、ビジネスメールなど、99%の精度があれば十分に通用する場面においては、あと数年もすれば自動翻訳が当たり前になっているだろう。

 

しかも、自動翻訳というのは、国や人種の境目を取り払うインパクト大の技術であり、国境を越えて人間やデータを囲い込むことが成長の源泉となるネット企業にとっては、どうしても他社に負けられない技術でもある。

 

そして、このようなネット企業にとっては、自動翻訳を無償で提供して人を集めることに大きな意味があるため、自動翻訳技術の優位性を競う競争に終わりはない。この技術は、どこまでも進歩し続ける。

 

英語学習 vs. 自動翻訳

2020 年度から、小学校5、6年生で英語が正式な授業になり(成績がつく!)、センター試験の後継である「大学入学共通テスト」でも、英語の試験が強化される。

 

自動翻訳が世間で当たり前になっていく時代に、全国民の英語学習の負担が増していく、という矛盾は、どのように捉えればよいのだろう。

 

電卓が当たり前になっていく中で、そろばんは強制的に教えられるものだったか? 洗濯機が当たり前になっていく中で、川で洗濯することは強制だったか? もはや、全国民が英語学習に膨大な時間を費やすことに、どれほどの意味があるのだろうか?

 

英語学習というのは、「川で洗濯」型ではなく「そろばん」型、つまり、「能力開発」や「知育」といった人間の欲求が反映されるものだろうから、そろばんと同様に、異なる役割で社会に貢献していけば良いと思う。

 

従来の「コミュニケーションの道具」という役割ではなく、論理力・記憶力・文化力を育てたり、左脳を伸ばしたりする「能力開発ツール」という役割を与えるようにすれば、それで良いと思う。これまでに蓄積されている言語学習のノウハウを、そのようなツールとして応用できるんじゃないだろうか。

 

 

 

おわりに

新しいテクノロジが登場した時、古い道具やツールは、必要なければ自然に消えていくだろうし、必要なものならば、役割を変えて残していけば良い。古いやり方に固執するのは、国全体の不利益になる。

 

ただし、そろばんが電卓に代わったところで、それはただスピードがアップしたり手間が少なくなったりするだけのことだが、翻訳には「意味」を伴うため、単純には比較できないし、たとえば国家間で交渉する場合に、自前じゃない自動翻訳に頼るってのは、あり得ない話だ。

 

高いレベルで交渉する政治家・役人・ビジネスパーソンには、やはり他言語(英語)の習得が必要だし、自前の自動翻訳技術を改良し続けるためにも、一部のエリートには言語学習が依然必要だろう。近いうちに、そんな未来になるだろうさ。

 

 

 

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